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アグラのハンセン病研究センター [インド]

前回はアグラのお土産の話を取り上げたが、今日の話はアグラに出かけた本当の目的に関するものである。タージ・マハルへのアクセス道路(Taj Rd.)をまっすぐタージ・マハルに向かって車をは走らせていくと、バリケードのようなものがあってこれ以上車では入れないという境界線になっている。その手前200メートルの沿道に、大学のキャンパスのようなものがある。National JALMA Institute for Leprosy and Other Mycobacterial Diseases(国立JALMAハンセン病他マイコバクテリウム属細菌病研究所)、通称「JALMAセンター」と呼ばれる研究教育機関である。

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《JALMAの正面ゲート》

JALMAセンターは1963年にインド政府と日本のアジア救らい協会(Japan Leprosy Mission for Asia)の合意に基づき、1967年に同地に設立された。アジア救らい協会は1962年設立され、「アジア諸国との国際協調に寄与するため、アジア諸国におけるハンセン病の基礎研究および医療活動をおこなうことを目的とし、向こう3年間の募金によって、インドにハンセン病治療のための病院建設を決議」したとあり、こうした民間からの資金調達により設立されたJALMAセンターは、初代所長を宮崎松記博士(1972年のニューデリー日航機墜落事故でご逝去)が務め、その後、西占貢(にしうらみつぐ)博士が2代目所長を務められた。

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《初代宮崎所長の胸像》

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《宮崎所長の慰霊碑に埋め込まれたプレート》

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《当時日本人医師が住んだと言われる宿舎、日本の民間援助による建設》

政府開発援助を通じた協力は1966年度の電子顕微鏡機材供与から始まり、その後1967年度の外科手術用器材等の供与、1972年から75年までは「ライ研究」プロジェクトとして、ハンセン病治療、社会復帰、教育、研究の4分野について、延べ7名の専門家が派遣された。日本からの支援は1976年度以降徐々にフェーズアウトが進められた。

JALMAセンターは元々ハンセン病研究の専門機関として設置されたが、その後ハンセン病には結核治療薬リファンピシンが有効との見方が強まったことから、結核研究も視野に入れ、さらに1999年よりカンプール県ガタムプールにフィールドオフィスを設置するとともにフィラリアやHIV/AIDSも研究領域に加わることになった。インドでは2006年にハンセン病登録患者数(Registered Prevalence Rate)が0.87とWHO基準の1.0を下回ったことから印政府は「ハンセン病撲滅宣言」を既に出しており、政府の予算配分もハンセン病だけでは確保が難しい状況が背景にはあるものと思われる。現在は、①クリニック、②ラボ、③研究、④管理の4部門から成り、この他に博士課程の高等教育、現役医師向けの研修等が行われている。

なお、西占所長は1985年に現地でご逝去され、今は奥様とともにJALMAセンター構内で埋葬されている。
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《西占所長ご夫妻のお墓》

40年以上前からの協力で、JALMAセンター配属の研究員・職員は全員世代交代しているが、構内には宮崎所長の銅像の他、宮崎・西占両所長の肖像写真が至るところに置かれ、その影響力の強さを物語っている。構内には「Dr. Miyazaki Rd」と呼ばれる通りもある。外来診療病棟は現在改装中であったが、我が国民間資金によって支援された施設(研究棟、講堂、図書館、病棟、ゲストハウス、スタッフ宿舎等)はどれも概ねよく管理されているように見受けられた。民間からの資金調達で整備されたことから、例えば病棟とナースステーションには「Japan Shipping Foundation」と記念プレートが埋め込まれているような配慮がされていた。

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《図書館、宮崎所長の民間資金調達によって設置された》

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《論文や文献のアーカイブは電子化が進んでいる》

JALMAセンターを当地にて設置するに当っては、ハンセン病患者のコロニーをタージ・マハルから極めて近いこの地に設置することに地元住民の大きな抵抗があったが、ネルー首相の決断で設置が決まったとのことである。構内で見かけた写真の中には、宮崎所長が同首相と握手しているものもあり、当時のこの事業がインド政府にとっても非常に重要なものと位置付けられていたのが伺える。

こうしたvisibilityの高さに加え、今回僕がお目にかかったマラヴィア所長、カトック副所長が揃って評価されていたのは、JALMAセンター発足当時はハンセン病患者の診療も嫌がっていたインド人医師をよそに、初期の日本人医師が接触も厭わず環境劣悪な農村部に入って患者と家族と接したその姿勢である。これを見た当時のインド人医師も積極的に患者・家族と向き合うようになり、ハンセン病研究が大きく進んだと2人はみている。当時の日本人医師の地道な取組みが今も多くの関係者の意識の中に残っているのを感じずにはおれない施設である。

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《ナースステーションにいた看護師3人》

JALMAセンターはタージ・マハルから非常に近く、アクセス道路(の沿道にあるため、日本からの観光客がそれとは知らずに通過していくケースが非常に多い。夏期休暇等を利用してスタディツアーや個人旅行でインドを訪れる学生・社会人に聞くと、コルカタのマザーハウスばかりを訪問して1日2日程度のボランティア活動を行うというのが一種の流行となっている様子が窺えるが、JALMAセンターにおける初期の日本人医師の方々の貢献を考えると、むしろアグラのこのような施設でこそボランティアの機会を提供できたらよいとも思われる。

昔ブータンに西岡京治さんという農業指導の専門家がいらして、パロ谷の農業開発に尽力され、国王から「ダショー」という称号を授与された。ブータンでは多くの人が知っている日本人である。宮崎所長、西占所長が1960年代から70年代にかけてアグラを拠点に尽力されたことはブータンの「ダショー・ニシオカ」に匹敵する貢献と地元での知名度だと僕には思えるが、40年も前のことになると僕達日本人ですら忘れそうになる。実際、ニューデリー日本人学校の修学旅行では2泊3日でアグラに行ったが、タージ・マハルは見学しても、JALMAセンターは見学していない。折角だからそういうのも組み合わせて欲しいなと子を持つ親としては感じずにはおれない。

『地球の歩き方』のブータン編には「ダショー・ニシオカ」を紹介する囲み記事が載っている。それだったらインド編のアグラのページに「ドクター・ミヤザキ」「ドクター・ニシウラ」を紹介する囲み記事があってもいいんじゃないかと思う。
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那須皓という偉人(サンチャイ・ブログ 2009-05-09 18:35)

今週はビハール州に行ってきたという話を何度か紹介させていただいているが、結婚式だけではなく、実はもう1ヵ所訪問してきたところがある。州都パトナからガンジス河沿いに西に50kmほど行ったところにあるアラー(Ara/Arrah)という町だ。この町には今から40年以上前に日本人の農業専門家が駐…[続く]

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