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『あゝ野麦峠』 [シルク・コットン]

あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史 (角川文庫)

あゝ野麦峠―ある製糸工女哀史 (角川文庫)

  • 作者: 山本 茂実
  • 出版社/メーカー: 角川書店
  • 発売日: 1977/04
  • メディア: 文庫
内容(「BOOK」データベースより)
野麦峠はダテには越さぬ 一つアー身のため親のため…娘たちの悲壮な歌声が峠にこだまする。くちべらしのため、渡り鳥のように、来る年も来る年も峻嶮な峠を越えて信州の製糸工場に出稼ぎにいった飛騨の糸ひきたち。日本近代化を底辺でささえた製糸女工たちの悲喜こもごもの生涯を、元女工の証言をもとに描きあげた、ドキュメンタリーの古典的名著。
たまたま偶然なのだが、今週の岐阜・岡谷出張が決まる以前に、市立図書館で『あゝ野麦峠』を借りて来ていた。僕がインドの養蚕業について調べていると職場の同僚に話したところ、「昔映画『あゝ野麦峠』で大竹しのぶさん演じる女工さんが蛹の浮いたバケツに顔をつけられそうになるシーンを見てから、カイコが苦手になってしまったんですよね」と白け気味に言われ、そういえば原作読んでなかったなと思い出し、すぐに借りてみることにしたのだ。僕は映画も見ていないし、ましてや原作も読んだことがない。半分は岐阜・飛騨地方のお話でもあるので、良い機会だから読んでおこうと考えた。野麦峠を越えた先にあるのが岡谷の製糸工場群だったというところまでは、恥ずかしながらあまり想像もしていなかった。

実際に読み始めてすぐに、それが岡谷を舞台にした話でもあるとわかったが、出張中は読むべき資料も他にあり、十分読み切れないうちに岡谷訪問となった。僕が訪れたのは独立行政法人農業生物資源研究所だったが、もう少し時間があれば岡谷蚕糸博物館も訪ねてみたかったと思う。本書で描かれていた世界が、写真や具体的な繰糸機の実物展示を見ながら、もっと具体的にイメージできたことだろう。春休みかゴールデンウィークに岐阜に帰省する際には、岡谷にまた立ち寄って蚕糸博物館にも行ってみたいと思う。とはいえ、今回の岡谷訪問は、400頁近くある本書を読み切るのに格好の動機付けにはなったと思う。帰りのあずさ号の中でも読み、11日の祭日も、体調崩して寝込んだ後は布団にくるまりながらさらに読んだ。すごく面白かった。月並みながら、お薦めの1冊です。

本書の紹介文には「女工哀史」という飾り言葉が必ず伴う。奥飛騨の極貧の寒村から野麦峠を越えて岡谷の製糸工場に働きに行った女工さん達が劣悪な労務環境の中で資本家に搾取されている姿、女性が虐げられている姿をイメージしがちであるが、本書を実際に読むとそんな話でもなかったらしいというのがよくわかってくる。特に明治初期に岡谷の製糸業発展の礎を築いた初代片倉兼太郎の描かれ方など見ると、仕事はきつかったかもしれないが意外と社長のことを慕っていた人も多かったのではないかという気がする。
彼らは幾千幾万の工女を抱えた大工場の社長であっても、そこらの社長室で葉巻をくわえて坐っている社長ではなくて、この地方のリーダー格の片倉兼太郎以下だれもが、みずから工女の先頭に立って働いた。
 明治のころには工場主も素ワラジに法被、頭には鉢巻きといういでたちで、工女より早く起きて、水車故障が起ると凍った天竜川にとび込んで修理し、釜に火をたき、まっ黒になって煙突掃除もした。
 だから、社長に会いたいと庭男に取次ぎを頼んだら、「社長はオレだが、何か用か?」といわれてめんくらったという話もある。「岡谷へ行ったら庭男にでもうっかりものが言えない」と東京者の目をみはらした。
 いわゆる岡谷製糸気質というものは、多分にこの片倉兼太郎に見習ったと思われるフシがある。(中略)
 景気のいい時、ほかのものが豪華な邸宅をつくっても、片倉兼太郎は、最後まで藁ぶきの農家に暮し、道楽を厳禁した。それで片倉には屏風がなかった。東京のある高名な画家の描いた屏風を一双持ちこんだ者があったが、兼太郎は、
「無用の長物足下の処置に一任する。価値如何は問うところではない」
 と即座に骨董屋を呼んで25円で売り払ってしまい、その金を「有益に使用すべきだ」と一言いったという話も残っている。
 汽車は必ず三等に乗り、人が二等に乗ることをすすめたら「二等に乗れば早く着くか?」といい、三等はみんなと世間話が出来ていいと付け加えたという。(pp.328-329)
女工から搾取したのだからさぞかし製糸工場経営者は儲けたのかというとそうでもなかったらしい。生糸の相場は乱高下が激しく、かなりのばくち商売だったことが窺える。それでも、レイオフしても女工さんの給料はちゃんと払って里に帰したという話を聞くと、「人は城、人は石垣、人は堀」というのを改めて感じる。南インドで養蚕業が盛んになっていっても、製糸工場の経営者がこうしたセンスを持っているのかどうかは僕にはよくわからない。

だから、女工さんが厳しい生活を強いられていたのかというと一概にそうでもなかったというのが著者の強調している点である。
 これは従来の女工哀史といわれるものにもいえることであるが、青くさい文学青年的発想のセンチメンタルはかえって有害である。筆者が長年かかって数百人の元工女と話し、考え続けた問題はそこにあるが、知り得た範囲では、従来いわれて来た画一的な〈哀史〉とはよほど違ったものだった。
 例えば、それは粗悪な食事、長時間労働、低賃金等が定説となっているが、実際に調べてみると、飛騨関係の工女の中には食事が悪かったと答えたものはついに1人もなかった。低賃金についても同じだ。長時間労働についても、苦しかったと答えたものはたった3パーセントだけで、後の大部分は「それでも家の仕事よりも楽だった」と答えている。
 それもそのはず、家にいたらもっと長時間、重労働をしなければ食っていけなかった。
(p.336)

 筆者は、長年この調査をして気付いたことは、工女の故郷で、女工哀史というと一様にけげんな顔をすることである。彼らは決してそう思っていないのである。人間は比較することだけしか感じることができないものだとしたら、彼らにとっては哀史どころか、それは生活の一歩前進であったと考えるのも無理はない。つまりそれは日本農村の底知れない貧しさ、みじめさの象徴であった。(p.343)

本書がいいのは、女工や彼女たちを送り出す貧困農家の立場から描くだけではなく、経営者も含めた当事者全ての視点から多面的に描き、さらには国内国際情勢といったマクロ面から岡谷の製糸産業を眺めるという試みも行なわれている点だと思う。元々僕は日本の蚕糸業の興亡のプロセスを一度ちゃんと調べておきたいものだと思っていたのだが、本書を読めば、明治初期から昭和ひと桁までが蚕糸業の盛んだった時代で、生糸相場のピークは大正9年(1920年)、没落のきっかけは昭和4年(1929年)のニューヨーク株式市場大暴落をきっかけとした世界恐慌で、それに第2次世界大戦が追い打ちをかけた。このあたりの経緯は、本書にもよく描かれている。明治から昭和初期にかけての日本の輸出は米国向け生糸輸出に相当頼っており、それで得た外貨を使って軍の増強が進められていた。その貿易相手と戦争を始めても、軍備拡充が進められないから、米国に勝つのは至難の業であることぐらい容易に想像はつく。

また、明治政府がとった初期の殖産興業政策に必要な外貨の調達も、生糸輸出によって行なわれていたことが述べられている。考えてみれば当たり前のことかもしれないが、僕にとっては目からウロコだった。それに、製糸業者が折角作った生糸が外国人商人により買い叩かれる構造が、当時日本が米国と結んでいた不平等通商条約とも関係しているというのは、今まで歴史の教科書上では「不平等条約の撤廃」がなぜ必要だったのかという背景を全く理解せずに歴史上の事実だけを丸暗記していた僕に1つの息吹を吹き込む記述であった。
要するに明治の日本が最近の新興独立国にように、外貨はなくとも、貿易が赤字でも、東西両陣営から緊急援助や低開発国何とか援助が入ってきて、たちどころにつじつまが合ってしまうような結構なご身分ではなかったということである。場合によってはせっかく敷いた鉄道さえひっぱがされていたかもしれないし、それがいやなら横浜か神戸、長崎あたりを香港のように身売りするより道はなかったであろう。明治とはそういう時代であった。つまり〈生糸〉というものがなかったら、明治は当然もっと変ったものになっていたことはまちがいない。(p.13)

蛇足ながら、今後僕がインドで製糸業を見ていく際に参考になる記述をメモ代わりに掲載しておく。
「繭の糸ぐちというものはちゃんと見えているのに、なれない人や眼の悪い人にはそれがわからない。それでミゴボウキで、みんなたぐってしまうので、クズ糸になってしまい糸目は切れて叱られる。また、束付けするなとよくいわれたが、なれないとどうしてもあわてて3本も4本も一緒に糸をつけてしまう。これを〈束付け〉といい糸ムラや〈節〉になってしまう。また繭は煮過ぎると光沢がおちるし糸目も切れる。むずかしいものだった……」(ベテラン工女のお話)(p.94)

製糸業者がいつも問題にしていることは3つにつきる。すなわち、(1)糸相場、(2)原料繭買入、(3)工女確保である。この三本柱のどれが狂っても製糸工場はなりたたない。
 このうち糸相場は、ニューヨーク生糸市場からくるもので、これは当時ではどうにもならなかった。従って彼らは後の2つ、原料繭買入れと工女の確保に躍起となったことは当然である。(p.113)
因みに日本は製糸業者が養蚕農家を戸別訪問して繭の直接購入をやっていたようだが、南インドには繭市場というマーケットが設置されており、そこは両国で大きく違う。製糸業者の経営については、あまり僕自身は関心を持って見てこなかった点でもあり、とても参考になった。

最後に、岡谷でインタビューをさせていただいた方から、後継者不在という問題についてお話をうかがったことについて述べておく。日本の蚕糸業は昭和初期から衰退の一途を辿ってきており、岡谷で長足の技術進歩を遂げた製糸業も、その後継者がいない中で最後の世代の人々が引退の時期を迎えているという。折角磨いてきた技術を継承する次の世代の人々が日本にはいないというのは残念であり、JICAが1990年代からインドで養蚕の技術協力を開始した際、それに関わった日本人の技術者の間では、日本が培ってきた蚕糸業の技術を全てインドに伝えたいという強い思いが共有されていたと仰っていた。

今の岡谷の街並みを見て、そこが明治・大正の時代に製糸で栄えたという面影を探すのはとても難しい。それだけに、『あゝ野麦峠』のようなドキュメンタリーは、世代を越えて読み継がれなければいけない。そして、そうすることで、今家の子供達が否応なく勉強を強いられている歴史や地理が、単に受験の科目としてではなく、もっと生き生きとした学びの対象になってゆくのだと僕は思いたい。
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