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『上州島村シルクロード』 [シルク・コットン]

上州島村シルクロード―蚕種づくりの人びと (ジュニア・ノンフィクション)

上州島村シルクロード―蚕種づくりの人びと (ジュニア・ノンフィクション)

  • 作者: 橋本 由子
  • 出版社/メーカー: 銀の鈴社
  • 発売日: 2009/07
  • メディア: 単行本
上州島村――現在の群馬県伊勢崎市境島村(平成の市町村大合併の前は佐波郡境町島村)の幕末から明治にかけての歴史を描いた小中学生向けの本である。小中学生向けと言いつつも、大人が読んでも結構読みごたえがある1冊である。

今となっては昔のことだが、この地区では、幕末に幕府が蚕の微粒子病で養蚕が全滅の危機に瀕していた欧州の要請を受けて蚕種の輸出を解禁した当時、世界最高峰の蚕種の産地として、その名を世界中にとどろかせたことがある。1877年(明治10年)の世帯数は317戸だったが、住民250人が蚕種製造に関わっていたという。

島村で1800年頃に蚕種を生産していた農家は12、3戸だったらしい。利根川河畔に位置して大洪水に幾度となく見舞われ田畑が失われた島村では、文政年間(1818~1830年)、村の存亡をかけて蚕種製造とその蚕種を出荷するための水運業の振興が行なわれた。蚕種製造とは、蚕を買って糸繭を作らせる養蚕農家に蚕の卵を供給する産業で、種の質が繭の質にも大きく影響することから、質のバラつきを抑制して全体の質的水準を高く維持する必要があり、とりわけ高度な技術が要求された。いわば全国の養蚕発展地域の中でも特に技術が進んだ地域だといえる。

島村で創意・工夫を積み重ねて発展してきた蚕種技術の1つが、田島弥平が考案した「清涼育」である。屋根の最上部にやぐら(天窓または越し屋根)をつけ、換気に配慮した自然飼育法で、飼育日数はかかるが失敗の少ない方法だった。こうしたやぐらつきの家屋は、僕の住む三鷹でも昔は存在した(下写真)。田島弥平は、『養蚕新論』という蚕種・養蚕の技術書を7冊著している。

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しかし、本書の重点は島村蚕種業の黄金時代と欧州への蚕種直輸出を描いた点にある。

江戸時代末、島村蚕種業は黄金時代を迎えたが、欧州への輸出ブームは劣悪な蚕種の混入や不正の温床となり、買取価格の暴落を招いた。こうした事態に対応するため、渋沢栄一の勧めもあり、1872年(明治5年)に島村勧業会社が設立された。会社形態で島村全体の蚕種の質的管理を試みたのである。

1878年(明治11年)、島村勧業会社は、蚕種の市場開拓と販売のため、東京日吉町に出張所を設立する。これまで行なわれていた売込商(中間業者)を通じて輸出するのではなく、外国人を出張所に招いて直接販売する体制をとった。さらには、島村勧業会社の蚕種を、品質の異なる他の蚕種と差別化するため、独自の商標を蚕種に貼り付けた。

そして、ついには外国人商人を介在させず欧州に直売することを目指し、1879年(明治12年)、第1回の直輸出担当者のイタリア派遣を行なう。出張者は田島弥平である。渡欧は4回に及び、本書によるとあまり売上成績は芳しくなかったが、本書の主人公でもあり、4回目の派遣で長期間の駐在を果たした田島壮太郎は、顕微鏡の操作技術を習得して帰国し、蚕種の母蛾検査と袋取り法によって島村の蚕種から微粒子病の病原体の除去に成功している。日本における蚕病予防法の始まりである。欧州向け直輸出はうまくいかなかったが、島村の微粒子病のない蚕種は国内でも好評を博したという。

―――以上が島村の歴史、そして本書の概略である。

小中学生向けの読み物とはいえ、多少でも養蚕や蚕種製造について知らないと本書に書かれている内容は理解しにくいかもしれない。特に、ここ数ヵ月養蚕の勉強を続けている僕にとって、蚕種製造は最も理解するのが難しかった技術であった。勿論、群馬県の小中学生であれば郷土史の一環としてこうしたことは習う必要があるのだろうから、本書の想定読者は意外と範囲が狭いのかもしれないという気がする。

本書については、下記URLのサイトが非常に詳しい解説をしているので、興味があったら読んでみて下さい。
http://yottyann.at.webry.info/200911/article_2.html

さて、ここで僕は僕なりの付加価値をこの島村の歴史に付け加えたいと思う。島村と南インドの繋がりである。実は、僕が本書を読んでみようと思った経緯もこの点にある。

島村には「田島」とか「関口」といった姓の人が多いようであるが、インドに養蚕の技術指導に渡った日本人の専門家の中に、田島姓の人が2人いる。島村の蚕種製造会社の設立を勧めた渋沢栄一も隣町の埼玉県深谷市の出身で、以前もご紹介した通り、渋沢もタタ財閥創始者との繋がりがある。ちょっとロマンを感じませんか?勿論、田島弥太郎博士も田島健一氏も、島村の蚕種製造の歴史を受け継いで日本でも一線級の技術者となられていたから、当時国内でも一線級の専門家ばかりを選りすぐってインドに派遣した日本の技術協力の中でもその知見が買われたに過ぎない訳だが…。

【田島弥太郎】
1913-2009 昭和・平成時代の遺伝学者。
大正2年9月26日生。群馬県伊勢崎市境島村出身。東京高等蚕糸学校から九州帝国大学農学部を卒業。農林省蚕糸試験場、大日本蚕糸会蚕糸研究所、さらに国立遺伝学研究所の形質遺伝部長、国立遺伝学研究所長を歴任。その後、大日本蚕糸会蚕品種研究所長、群馬県立日本絹の里館長を務めた。
http://www.afftis.or.jp/senjin3/30.html
以下は、僕が現在執筆中の本で田島弥太郎博士について書いている箇所の抜粋である。
 インド蚕糸業の近代化は、独立後1951年から始まった数次にわたる5カ年計画によって推進されている。そのうち、第2次5ヵ年計画では、計画期間の開始にあたり、当時世界の最先端に位置した日本の養蚕技術の指導を受けるため、インド政府はコロンボプランを通じた複数の専門家の派遣を計画し、日本に要請している。当時、日本国内では、インドの養蚕振興によって、日本の生糸、絹織物の販路が狭くなることを危惧する声もあったが、「インドの生産する緯糸に、品質優秀な日本の経糸を配してはじめて立派な製品となる現状は、同国の生産工場と販売高増進が日本へのプラスとなる公算が多い」 と判断し、派遣に踏み切っている。
 こうして、1957年9~12月に田島弥太郎専門家が渡印し、3ヶ月の現地視察を経て、「Report on Sericulture Industry in INDIA」と題した提言書をインド政府に提出している。この中で、田島は、糸質の良い二化性繭の生産への移行に加え、養蚕州単位での養蚕振興や、国立の専門研究所および研修所の設置などを提言しているが、インド政府はこれをもとに繊維省中央蚕糸局(CSB)傘下の行政組織、研究・研修機関の整備を進め、現在の実施体制に繋がっている。その1つが1961年にマイソールに設置された中央蚕糸研究訓練所(CSR&TI)で、家蚕の養蚕から製糸に関する基礎から実用研究を行い、さらに普及員への技術研修センターとしても位置づけられ、後に1991年から実施されるJICAの技術協力プロジェクトのメインサイトとなって繋がっていくのである。

【田島健一】
島村の蚕種を欧州に直輸出するべく、1879年イタリアに渡った田島弥平の曾孫。田島自身も現役時代は技術者として群馬県の施設などで働き、1990年代前半にはJICAの専門家としてインドに蚕種製造の指導に行ったこともある。蚕種の需要は減って島村でも1988年から蚕種は製造されていないが、、田島は「このままでは日本に誇る歴史が忘れ去られる」と考え、2005年12月、郷土史を研究する「ぐんま島村蚕種の会」を知人とともに設立し、会長に就任している。「ぐんま島村蚕種の会」は、①村内の養蚕家屋群の実態調査、②郷土史学習講座の開催、③養蚕家屋群や文化財、歴史などを案内する観光ガイドの養成を活動の柱とし、島村の歴史を後世にまで伝えるために、自ら郷土を学ぶ運動を進めている。
http://www.jomo-news.co.jp/rensai/kinukuni/kiji/6-03.htm
http://www.kinugasa.kit.ac.jp/indiaohtsuki.html
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kanagawa/kikaku/071/10.htm

旧佐波郡境町というところにはこれ以外にもちょっとした思い入れがあるが、蚕種製造で栄えた村の今を知りたくて、一度訪ねてみたいと本書を読んで強く感じた。
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