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40年前の日本人の足跡 [出張先にて]

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H. L.ヴァサンタ・クマール(55歳)は、カルナタカ州で有名な穀物ラーギの育種専門家である。父親のC. H.ラクシュマイアから二代続けてラーギの育種に携わる。ヴァサンタは今、バンガロール州立農科大学傘下にあるマンディア県の地域農業試験分場で働いている。

ヴァサンタがまだ10代前半だった頃、父親の仕事の関係で住んでいた支場のスタッフ宿舎周辺で、日本人の子供達と遊んだことをよく覚えている。1965年から72年頃までのことだという。ヴァサンタは彼らにカンナダ語を教え、彼らから日本語を教わった。今でも少しだけ日本語を覚えている。「あなたの名前は何ですか?」ということができる。

マンディアには、日本とインドの合意に基づいて1962年(昭和37年)から始まった「デモンストレーション・ファーム(模範農場)」と呼ばれる技術協力の一環で設置された農場の1つで、1964年に開所した。この農場はその後、1968年(同43年)に「日印農業普及センター」に改組され、本格的な技術協力プロジェクトとなった。日本人の農業専門家が長期派遣されて、75年(同50年)まで協力が行なわれた。

ヴァサンタは、こうして赴任してきていた日本人専門家家族と交流し、今もセンター跡地で勤務しているという、数少ない昔の歴史の証言者である。ヴァサンタは、特に専門家チームのリーダーだった末次勲さんのことをよく覚えており、バンガロールやマイソールによく連れて行ってもらったと回想する。

専門家の人々が今どこにいるか知っているかと聞かれたが、残念ながら僕には探し出す術がない。せめて、このブログでこうした40年以上前の南インドにおける日本人専門家チームのご活躍が、地域で今も記憶に残っていることを伝えたくて、ブログで取り上げることにした。この専門家チームの皆様、あるいはご家族、ご子息の方々がもしこの記事を読まれることがあったら、是非下記にご連絡を下さい。

Dr. H. L. Vasantha Kumar
Ragi Breeder
Zonal Agricultural Research Station
V.C.Farm, Mandya 571405
Karnataka, INDIA
Mobile: 9845050921

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当時の南インドは食糧不足が深刻で、マンディアセンターでは多収量米品種を作付し、さらに日本方式で収量最大化を図ってほしいとの期待が非常に高かった。州立農科大学の試験分場から6haの用地を州農業局が借地利用して運営されており、この大学が州政府からの委嘱を受けて実施している普及訓練の各コースのうち、日本人専門家チームは稲作分野のコースを重点的に担当した。そして、彼らが改良した圃場を利用した高位稲作の展示と、日本製の農業機械を利用した機械化稲作の機械訓練と機械の貸し出しなどが実際には行われたという。

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マラナヤカッテ村に住むシデ・ゴウダさん(76歳)は当時稲作農家だった。彼が住んでいた村にも日本人専門家チームが来て、耕運機や田植え機、条植え、脱穀機等のデモンストレーションを行った。最初の頃は身振り手振りだったが、何度か訪問してくるうちに、だんだんカンナダ語で説明してくれるようになっていったのをよく覚えている。こうして教わった新しい技術によって、以前なら1エーカー当たり1,500~1,800kg程度だったものが、4,000kgにまで増えたという。その後時間の経過、世代の交代とともに、初期の技術が徐々に劣化していき、今は3,000~3,500kg程度に落ちている。「日本人がいた頃がいちばん良かった」とゴウダさんは語る。

日印農業普及センター・マンディア分場は、その後州政府の組織改編を度々受けて、2004年からは州立農科大学傘下の農業科学センター(Krishi Vigyan Kendra、KVK)に改組され、マンディア地区の農業実証試験と普及の拠点として、現在も活動を続けている。マンディア地区は現在、養蚕が盛んな地域であるだけではなく、州随一の穀倉地帯として有名であり、今の季節は多くの田圃で稲穂が風になびいている。

今やこんな遠隔地に日本人がそれも家族で住んでいたというのは信じられないことだ。しかし、こうして訪ねた門外漢の僕をやさしく受け入れ、昔の思い出を懐かしそうに語ってくれる人たちがいるということが僕にはとても嬉しい。
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