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27年前の日本人の足跡 [出張先にて]

*この記事は、ブログの予約投稿機能を使って書いています。この時刻にPCの前に向かっていたわけじゃありませんから念のため。

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日本人の昔の足跡を探す旅の第二弾は、1984年夏にカルナタカ州で養蚕村の農村調査をされた大迫輝通博士の足跡を辿るものである。南インドの養蚕について調べているうちに、大迫先生が1980年代に発表された論文に出会い、実際に岐阜県大垣市に大迫先生を訪ね、お話を伺った。大迫先生は1980年代に3回インドで農村調査を行われているが、そのうち1984年の調査の際の写真を何枚かお預かりした。

その写真を持って、カルナタカ州チャムラジナガル県クントゥール村を訪ねた。普段から養蚕経営指導で頻繁にこの村を訪れている州蚕糸局の職員の方の案内の下、写真を辿って大迫先生の足取りを辿っていったら、行き着いたのがK.G.プラブスワミーさんの家。当時の世帯主は父親のデヴァルさんだったが、2000年2月にお亡くなりになり、今はプラブスワミーさんが一家の大黒柱である。

プラブスワミーさんは当時は23~24歳だったので、大迫先生の来訪時のことをよく覚えているという。2日間にわたって世帯調査をされ、プラブスワミーさんの家では、蚕室や桑畑も見に行き、聞き取りには半日近くを費やしたという。

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当時の写真に写っていた家族のうち、弟とお母さんはご健在だった。弟は別の家に住んでいるので会えなかったが、現在のプラブスワミーさん一家の写真を撮らせていただいた。現像して大迫先生にお渡しするとともに、プラブスワミーさんにもお送りしようと思ったが、なんと奥様がデジカメを持っておられて、その場で済んでしまった。インドの農村でデジカメを持っている世帯を見たのは初めてだ。

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既にご紹介した通り、プラブスワミーさんは養蚕農家である。父親が亡くなられた後10年ほど養蚕はやっていなかったそうだが、1年前から再開して、年5回、各100dflsほど飼育しているという。桑園面積は1エーカー程度。大迫先生が調査をされた当時は丸い蚕箔で蚕を飼育して桑葉を1枚1枚摘んで給餌していたが、今では棚飼いで枝ごと給餌する条桑育をとり入れていた。この棚飼い条桑育は、1990年代から2000年代にかけて行なわれた日本の技術協力の成果だ。クントゥール村周辺はプロジェクトの対象とはなっていなかったが、それが普及してきていることがわかった。

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また、プラブスワミーさんは独立した飼育棟を建設して蚕を飼っていた。州からの建設助成金で建てたもので、その他にも夜間の給餌用にソーラーパネルと照明灯が設置されていた。これも最近の話。独立した飼育棟も日本の技術協力の中で推奨されていたこと。飼育されている品種はCBと呼ばれ、南インドで広く普及している品種だが、その片親であるCSR2と呼ばれる系統はこれまた日本の技術協力で開発されたものである。こうして、直接日本の技術協力の恩恵を受けなかった地域にも、協力の成果は様々な形で拡がってきていることを実感できる。

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プラブスワミーさんは、村パンチャーヤトの議長を務める地元の名士になっておられる。

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この村は1999年に用水路が開通してから灌漑が可能となり、桑から他の商品作物への転換がかなり進んだ。乾燥地であればラギー、ジョワールといった粟稗のような穀物や豆類しか作れないが、灌漑ができるとコメやサトウキビ等に作付転換が可能となる。その中で養蚕をどう位置付けるかは世帯毎にケースバイケースかなと思う。プラブスワミーさんはトータルでは7エーカーの農地を持つが、うち1エーカーだけが桑で、あとはコメとココナッツだと言っていた。この村には、CBではなく、日本の技術協力で推奨されていたCSRハイブリッド(二化性交雑種)を飼育している若手の農家もいた。
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