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『内発的自然感覚で育みあう将来世代』 [シルク・コットン]

内発的自然感覚で育みあう将来世代―インド植林プロジェクトを通して学ぶ

内発的自然感覚で育みあう将来世代―インド植林プロジェクトを通して学ぶ

  • 作者: 矢崎 勝彦
  • 出版社/メーカー: 地湧社
  • 発売日: 2011/12
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
よりよい社会を将来世代に受け渡すために森が育ち、人が育ち、物語がつむがれていく。「三方善」のビジネスモデル実践録。
通販会社フェリシモの会長が、比較的最近書かれた本。インド駐在の頃から、フェリシモの方々とは接点もあるので、「ともに幸せになる幸せ」という会社の理念がどのようにして生まれてきたのか、本書を読んで少し勉強してみようと考えた。

そもそも僕がフェリシモと接点ができたのは、現在同社が支援してオリッサ、アンドラ・プラデシュ両州の5つの県で展開している綿花栽培農家のオーガニックへの移行支援の取組みの立ち上げに関わらせていただいたのがきっかけである。その事前調査の際、本書でも紹介されていて現在は専務の要職にあるH氏ともお目にかかり、同氏が以前から西ベンガル、ジャルカンド州などで展開されていた植林プロジェクトを通じてインドとは繋がりがあることを知った。1990年代から協力が始まったこの植林プロジェクトでは、禿山だった土地が木に覆われ、やがて野生のゾウがやって来るようにもなったというのを、「使用前vs.使用後」の比較の写真をもって見せていただいた。

この「ゾウの森」の話は同社の他のスタッフの方もよくオーガニックコットン栽培移行支援事業の説明の冒頭で、同社のインドとの関わりの前史としてよく言及される。しかし、そのプロジェクトで実際に同社の社員の方々が具体的にどのように関わられたのか、現地のパートナーとなった団体がどこだったのか、植林事業の際に必ず問題となる地域住民の主体性はどうやって引き出せたのか、日本からの「遠隔操作」(言い方は悪いが)でそれがどうやったら可能だったのか、そういったことはあまりわからなかった。

僕からしてみれば、オーガニックコットン栽培移行支援事業の立ち上げと立ち上げ後の管理運営でご苦労なさっている同社の社員の方々を横目で見てきたわけだから、1990年代前半以来これだけのご経験をされて今に至っているのだというのは驚きでもあったし、今オーガニックコットン事業に関わられている方々も、「植林プロジェクトではここまでやったんだから」というところで、会長の期待値がこのレベルにあるのだというのがわかり、今事業に関わられている方々も大変だなとは思いつつも、今お手伝いできることはしたいと気持ちを新たにした。

「ともに幸せになる幸せ」というのはまだわかりやすい理念だが、正直なところここまで深い意味があるというのは驚きでもあった。確かに同社にいらっしゃる僕の知人の多くは、こういう、多少なりとも思想や哲学に準じるような言葉を頻繁に使われる。仏教の中の考え方、用語が飛び出すこともある。それがどうしてなのか、本書を読めばよく理解できる。会社のトップのこういうお考えが、社員ひとりひとりによく浸透しているということなのだろう。そしてそこから生まれる事業にも、そういった理念が反映されてくるのだろう。

「内発的自然感覚」という言葉の定義は、植林と結びつけて最初は「自然環境」のことかと誤解してしまったが、実はそうではなく、ひとりひとりが持つ社会貢献意識、「公」の意識が、実際の行動に自然に滲み出てくるような自発性内発性のことを言っているらしい。だから、インドにおいても、外から必要なリソースを投入して援助するという発想ではなく、そこに住む人々が自ら当事者として問題解決に向かうようになることが前提としてあるのだということを、忘れないようにしたい。

 真に自分の問題を解決できるのは自分だけです。他者に依存して解決してもらおうとするのではなく、自分が当事者として自分の内発的自然感覚を自覚し、徹底的に葛藤しながら実体験から学び経験を深めて問題を乗り越えていくことで、課題を本質的に解決する内なる智恵が磨かれ深められていくのだと思います。政治家や法律家や教育者による、上から、外からの教化が、私たち一人ひとりの人格を高めたり、秩序ある未来をつくっているわけではないのです。(p.121)

 大事なことは一人ひとりが公共性を担う主体となることです。
「公共」とは、社会と個人が「共に幸せになる幸せ」をめざして発展しつづけていく概念で、社会レベルの「公」の幸福と個人レベルの「私」の幸福とを分けません。これまで、ひたすら「私益」を追求してきたのは資本主義社会です。そこでは個人が幸福を追求するチャンスを持つことができるかわりに、社会全体の共通目的が不在となりがちです。逆にひたすら「公益」を優先してきた社会主義社会では、社会全体の共通目的が優先され、個人が幸福を追求するチャンスを持つことができません。どちらにも限界があったことは歴史が証明しています。
 植林プロジェクトは一人ひとりが公共性の主体となることの大切さを目に見える形で示してくれました。(p.140)

もう1つ、本書のサブタイトルで目にひく言葉は「将来世代」である。オーガニックコットン事業を語るとき、僕の知人は綿花栽培を行なう農家の人々や学校に通う子供たちの写真を見せながら、「100年後もこの光景が見られますように」というフレーズをよく使われる。「持続可能な開発」のことを言っておられる。しかし、本書によると、「サステナブル・ディベロップメント」を「持続可能な開発」と訳すのはおかしいと著者は指摘されている。著者はこれを「永続的発展」という言葉を用いて説明している。

 これは、「今自分たちは将来世代から何かを収奪していないか」「将来世代に自分たちは何を残せるか」という観点に立って、現世代である我々の行動を規定するという道です。(中略)欧米の賢人たちへのインタビューを通して痛感したのは、「サスティナブル・ディベロップメント」を語る時、彼らが一様に現世代観点から将来世代をとらえていたことです。京都フォーラムが発信しつづけてきたのは、将来世代からの観点に立った私たちの現状に対する意識改革だったのです。
 この観点の違いは、日本で「サスティナブル・ディベロップメント」が照会された時の訳語が端的に示しています。「持続可能な開発」と意訳されたのです。
 なぜ「永続的発展」が「持続可能な開発」とされたのでしょうか。「永続的発展」が将来世代から俯瞰逆算して現世代のあり方を問い返すのに対して、「持続可能」とは、現世代を起点にして今を将来世代に向けて持続させようという考え方です。方向性がまったく反対になるのです。日本の政府が「持続可能な開発」という言葉を選んだことに、現状の経済発展を妨げまいとする意図を感じるのは私ばかりではないと思います。(pp.26-27)

本書で書かれていることを踏まえて、今後もお手伝いをさせていただければと思う。

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