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『苧麻・絹・木綿の社会史』 [シルク・コットン]

苧麻・絹・木綿の社会史

苧麻・絹・木綿の社会史

  • 作者: 永原 慶二
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 2004/11
  • メディア: 単行本
内容(「BOOK」データベースより)
前近代の日本人の三大衣料原料であった苧麻・絹・木綿。その生産はどのように行われ、民衆の暮らしとどう関わったのか。三本の糸を手繰りながら、これまで見えなかった民衆の生活史・社会史像を独創性豊かに織り出す。

少し前に別の記事で、「海外赴任する前に富岡製糸場は見ておきたい」という趣旨の発言をしたことがあった(こちらの記事参照)。その実現は3月以降のお楽しみということにして、今どうしても行きたいのは、実は山梨県立博物館の企画展『天の虫のおきみやげ-山梨の養蚕振興』だったりするわけだ。こちらは展示期間が今月いっぱいまでなので、平日に会社休んで早く行きたいと思っている。そうなると、懸案だった『富岡日記』は後回しで、その前に読んでおくべき積読の書を片付けることからスタートせねばなるまい。

日本の歴史学の泰斗ともいえる永原慶二の著したこの本は、購入してから積読状態での放置が1年以上に及んでいた。海外赴任の日までに積読状態の本をできるだけ減らすという至上命題のため、僕は山梨県立博物館行きを誓ってすぐに、この本を読むのに取りかかった。それでもなかなか読み進めることができず、この1週間でなんとか勢いをつけ、読み切ることができた。

購入した動機は、1冊の本の中で、絹と木綿が扱われてることに尽きる。これまで、絹は絹、木綿は木綿で、日本の歴史の中でどこからどのように登場し、普及していったのかを解説してくれる本は存在していた。どこのどのような本ではどのように描かれてるか、そうした相場観は何となく養成できたように思う。ところが、視点を変えてそこに暮らす人々の衣服として捉えた場合、それを絹、木綿と素材別で切り分けてしまっては、日本人の暮らしがどのように変わっていったのかをダイナミックに捉えることができない。

永原氏の著書の1つに『新・木綿以前のこと』(中公新書、1990年)がある。柳田國男の『木綿以前のこと』になぞらえてこんなタイトルになったのだろう。でも、この本に関するアマゾンのレビュー欄を読むと、この本に書かれているのは主に「木綿以後のこと」だとの批判がある。「木綿以前のこと」にはあまり触れられていない。著者もこの題は気が進まなかったが、編集者に強引に言われてこうなったのだという。著者の心の中にはずっとそんなわだかまりがあったのだろう。晩年になると、「木綿以前こと」と「木綿以後のこと」を統合して、日本の社会の変遷を、衣料の素材の変遷から、捉えようという試みに着手し、本書の二校まで進んだ段階で、他界されるに至ったのだそうだ。

近世以前、律令制度の時代は、租庸調から成っていた日本の租税制度において、「調」というのは、絹・真綿、または布・麻といった物納を指していた。つまり、律令制度の時代から、養蚕も存在したし、麻から布を作るという生産形態も存在したということになる。ただ、この時代には絹は既に高価な生地だったようで、もっぱら庶民が物納できたのは麻(苧麻、カラムシ)だった。とはいっても、原料植物の苧麻を織り上げて布生地にするのは大変な手間だったらしい。

それが、室町、戦国、安土桃山の時代を経て、江戸時代初期になってくると、大陸から入って来た木綿が国内で急速に広まった。興味深いのは、戦国の大名がこぞって綿糸の確保に奔走していること。戦闘に駆り出す足軽に着せる衣装として、大量の生地が必要になった。最初は大陸からの輸入に頼っていたが、やがて自身の領地での綿花栽培へと移行、人々は畑で綿花を栽培して、日本各地で綿花畑が見られるようになった。容易に生地がつくれるようになると、人々の生活も一変、余剰の木綿は商業取引へと向けられ、商品作物の栽培が一気に開花した。

―――というのが本書の大筋の流れである。従って、中世以前の記述ではどうしても苧麻生産に関する記述が多く、中世になると木綿の生産に関する記述が大半を占める。なにしろ、本書の第4章「苧麻から木綿へ」は、著者自身が以前書いた『新・木綿以前のこと』の改訂増補となっている。

他方、絹はというと、主には荘園制度の下での身分制作物への進化の過程が描かれている。勿論、養蚕はそれ以前から行われていたが、絹が織物としての価値を高めるのは奈良・平安時代の僧侶や貴族の衣装によるところが大きかったらしい。でも、それじゃ一般庶民はどうだったかというと、織物としての絹ではなく、繭から作る真綿が保温性に優れていたこともあったので、真綿としての用途は庶民の間でも残っていたと見られている。ちょっと長いが、養蚕に関する記述を引用する。

 日本列島で養蚕が行われ、粗い平絹にもせよ、絹織物がつくられだしたのは弥生時代の中頃以降であったらしい。それはやはり渡来人を介して大陸から北九州へという経路をとって日本列島に伝わり、九州に広まる一方、1つは日本海側を山陰から北陸へ、もう1つは瀬戸内海両岸の国々を経て、紀伊・大和・伊勢・美濃・尾張・遠江など東海地方へと広まっていったと見られている。
 その厳密な展開過程は絹片などの出土物と関係遺跡に即して確定していく他ないが、(中略)律令国家の桑漆「催殖」政策よりはるか以前から、したがって、おそらく絹が身分制的衣料として不可欠という規定性を受ける以前から、保温実用衣料としてつくられだした可能性があったことを意味している。おそらく生産規模は別として、糸を引き絹に織るより、保温衣料目的で主に綿(絹綿)をつくるための小規模な養蚕が行われていたと思われる。絹と綿には保温的役割が身分制的役割に先行して存在していたわけであり、その点は後者の役割が強まる律令制及びそれ以降の時代の問題を考える際にも念頭におかなければならないことがらである。(pp.100-101)

 関東8ヵ国と甲信は漠然と古代以来絹の早くからの産地のように思われがちであるが、そうではない。東国は苧麻系の「布」の生産が中心で、「絹・あしぎぬ」を輸することができる国々のなかでも「絹」よりも品質の劣る「あしぎぬ」だけを輸しており、それより上質の「絹」を輸するのはほとんど右の上糸国・中糸国計37国の内である。また、「交易雑物」として絹・綿糸の物を輸する国も伊賀・伊勢・尾張・三河・遠江・駿河・武蔵・上総・常陸・近江・美濃・上野・越前・加賀・能登・越中・丹波・丹後・但馬・出雲・石見・播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・紀伊・阿波・讃岐の30カ国と大宰府である。それらでも「絹」の生産は、実際には一般百姓がひろく平均的に行えるものではなかったので、国衙・郡衙などに下属する官営工房での製織や地方豪族の生産物を正税での「交易」によって入手調達することが不可避だったと思われる。(p.105)

僕の知り合いには、蚕糸業の関係者もいれば、コットンの輸入と製品販売を手掛ける業界関係者もいる。そのどちらとお付き合いしていくにも必須だと思うのは、昔の日本はどうだったのかという基本的な理解だ。この本はそのニーズに的確に応えてくれている。欲を言えば木綿以降の記述は基本的に木綿を中心にした周辺の関連産業までがせいぜいで、荘園制度の下での養蚕が、その後どのように展開し、江戸時代の商品作物かにつながっていくのかについても言及して欲しかったけれど、江戸期以降の養蚕については他文献でも補うことができそうだ。

それにしても、江戸時代には全国いたるところで見られた綿花畑が、明治時代に入って中国やインドからの安い綿花の輸入に押されて一気に姿を消してしまうという本書の後日談には、明治維新って何だったんだろうという、ちょっとした疑問も抱いてしまった。


もしご近所の読者の方がいらっしゃったら、是非山梨県立博物館へ!
http://www.museum.pref.yamanashi.jp/5th_tenjiannai_symbol_031.html#mainshiryo

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