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『帝国を壊すために』 [読書日記]

帝国を壊すために―戦争と正義をめぐるエッセイ― (岩波新書)

帝国を壊すために―戦争と正義をめぐるエッセイ― (岩波新書)

  • 作者: アルンダティ・ロイ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2003/09/20
  • メディア: 新書
内容紹介
2001年9月11日以降,暴力と偽善が世界を覆い尽くしている.ブッカー賞受賞のインド人女性作家ロイは,その状況に対して絶え間なく抵抗の声を挙げ,帝国とは別の世界を求めるすべての人々に希望と勇気を与えてきた.「「無限の正義」という名の算術」「帝国の民主主義」をはじめ,海外で注目される8篇の政治エッセイを収載.

毎年8月下旬、ブータンでは「マウンテン・エコー文学祭」というのが開催される。インド・ブータン財団主催で、世界的にも有名な「ジャイプール文学祭」を毎年主催しているインド・ラジャスタン州政府が後援するこの「マウンテン・エコー」、そもそも文学祭なるものに縁のなかった僕には最初はピンと来なかったが、昨年はラジャスタン州のラジェ首相がこれに合わせてブータン入りしたし、作家のアミターブ・ゴーシュが来たという。今年は、今わかっているだけでも、元インド外相でこれまた作家のシャシ・タルール、インドNDTVの超有名キャスター、バルカ・ダット、4月に著書『SET FREE』をこのブログでもご紹介した著者のエマ・スレイドさんも登壇予定と聞く。

過去に遡れば、英ブッカー賞受賞作家も名前を連ねる。チェタン・バガット、アルビンド・アディガも過去には参加したことがあるらしい。いずれも、少なくとも著書を1冊は過去に読んだことがある作家である。そして、本日ご紹介するアルンダティ・ロイも、そうした過去の参加者の1人である。

この、ケララ出身、デリー在住の作家も、今年の文学祭には来るのではないかと密かに期待している。というのは、彼女、今からちょうど1カ月前、『小さき者たちの神』以来という長編小説を久々に発表したからである。『幸福最大化省(The Ministry of Utmost Happiness)』と題した小説なので、ブータンの文学書好きの心の琴線には必ず触れると思う。今年の文学祭には来れなくても、来年には招聘されるのではないだろうか。今年難しいかもしれないのは、彼女が肩入れしていたナルマダ河流域開発計画反対運動の提唱者メダ・パトカール女史が1週間前にマディア・プラデシュ州政府に拘束されるという事件があり、その釈放をロイが訴えて、折角の文学祭が政治的プロパガンダの発信に利用されないかとの懸念が主催者側にあったかもしれないからだ。(ま、それも杞憂でしょうが。なにせ、中産階級出身のメダ・パトカール女史が運動のカリスマ的リーダーとして祀り上げられている現状にもロイは批判的だから。)

なにはともあれ、僕が次に読む英語の小説としてはロイの新作が適当だと思っていて、この本は遅かれ早かれ入手して読むに違いない。だから、その前に手元にある彼女の著作で、未だ読んでないものぐらいは片付けておこうと考え、ブータンから日本への帰国のフライトの機内で一気に読み終えてしまった。

ロイの著作はこのブログでも何度かご紹介してきたが、日本語で書かれたものの中では、『小さき者たちの神』を除けば本書で全て読み切ったことになる。岩波新書から出ている本書は、発表時期としては相当昔の部類に入り、この本に収められているエッセイは、そのほとんどが2001年から2003年にかけて発表されたものだ。その時期を改めて振り返ってみれば、9.11があり、アフガン空爆があり、そしてインドではグジャラート州でムスリムが大量虐殺された時期である。しかも、その虐殺を黙認した当時の州首相は、今やインドの首相である。

本書全体を貫く雰囲気については、訳者のあとがきが明確に物語っている。
 難民と民族国家、戦争と種族虐殺、証言と記憶、市場とグローバリゼーション、帝国と民主主義―――ひとつの世紀末から、もうひとつの世紀へと時代が激動するとき、支配し収奪し殺す側の圧倒的な暴力と偽善に対して、ときに激しくときに暖かく、そして静かでも輝かしく声を挙げる民衆たちの姿がある。彼ら彼女らのひとつひとつの存在は、強大な権力にくらべれば、小さなものかもしれないが、それが負け続けても、権力にあらがうことをやめないかぎり、権力はいつまでもそれを、恐れ続けなくてはならない。権力は一度負ければおしまいだが、民衆には負けてもいつかは勝てるという、歴史の必然と、現在の革新と、未来の希望があるのだ。(p.211)
皮肉にも、エッセイ発表から10年以上が経過すると、当時の権力者は民衆の支持を得て国全体の指導者に選ばれている。これでは、どっちが正しいんだかわからなくなってしまう。

エッセイ集が読みにくいなと感じるのは、別々のメディアで発表されたものを集めているからか、同じような記述が何度も登場することだ。基本的には「帝国」を当時の米国ブッシュ政権やインドのヒンドゥー・ナショナリズム運動に見立てていて、同じエッセイの中でも米国とインドが出てくるケースもあったので、どれも論調がよく似ていると感じざるを得なかった。

ただ、その一方で、これらを今読み直してみると、「ブッシュ政権」を「トランプ政権」に置き換えてみたり、あるいは「ヒンドゥー・ナショナリズム」を某国の政権与党に置き換えてみたりしても、ここで書かれている論点はかなり今でも有効なのではないかと感じた。
 インドでは、核爆弾について、巨大ダムについて、企業主導のグローバリゼーションについて、そしてヒンドゥー・ファシズム興隆の脅威について公に批判する者―――そうした批判的意見はインド政府公式方針と相いれないわけですけど―――そうした人たちは、「反国家的」という烙印を押されている。そんな非難を受けても、べつにわたしのなかには怒りなど湧いてこないけれども、それはともかく、この名称は、わたしの行いや思考方法の正確な記述とは言いがたいですね。「反国家的」とは自分自身の国家に反対すること、よってほかのどれかに賛成している者であることを示唆する。でも、あらゆるナショナリズムを根底から疑うこと、つまり反ナショナリズムをつらぬくためには、必ずしも「反国家的」である必要はない。20世紀の民族大虐殺のほとんどが、なんらかのナショナリズムに起因していた。色のついた布に過ぎない国旗なる代物が、ときの政府によってまず自国の人々の精神をがんじがらめにするのに使われ、つぎに死者を埋葬する儀式の経帷子となる。自律した思考力を持つ人々(大企業に奉仕するマス・メディアはここには含まれない)がそうした旗の下に集結しはじめるとき、作家、画家、音楽家、映像作家が自分たちの判断を留保して、「国家」の利益に自らの芸術を盲目的に影響しようとするとき、そうしたときこそ、わたしたちすべてが居ずまいを正して憂慮すべき時だ。(p.101)

 民主主義の装置がその実効力を奪われているのは、第一世界の国々も同様だ。政治家、メディアの大物、裁判官、大企業の幹部、それに政府の役人、こういった一群の人間たちが巧妙に共謀して、議会民主主義の根幹である、憲法、裁判所、議会、行政、そしえおそらくもっとも重要な要素である独立したメディア、それらの間にあるべき水平的な抑制均衡機能を完全に掘り崩している。そしてこのような共謀関係は、繊細でも手の込んだものでもなくなり、ますます露骨になってきている。(p.193)
―――断っておくが、これは2003年5月にロイが行った演説からの引用である。14年も前の話になるが、それでも、この記述は今の日本の雰囲気を、かなり正確に描いているような錯覚を覚える。

ロイさんを招聘するなら、ブータンよりもむしろ今の日本の方がいいのではないか、今の日本を見たら、ロイさんはどうお感じになるのだろうか―――そんなことをふと思いながら、本書は読み切った。

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