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ゴカレ博士の訃報 [S.D.Gokhale]

Senior social worker S D Gokhale dead
TNN Jan 16, 2013, 04.51AM IST
PUNE: Senior social worker and founder of the India chapter of International Longevity Centre (ILC-I) Sharadchandra Gokhale (87) died of age-related ailments at 12.30 pm on Tuesday. He is survived by his wife and two children.
A former journalist, Gokhale had worked as the editor of Marathi daily Kesari. After taking a degree in social work from the Tata Institute of Social Service in Mumbai, Gokhale served as the director of the state social justice department for a long period.
[Source] Times of India
僕の敬愛するインド人ソーシャルワーカーの草分け、S.D.ゴカレ博士が15日(火)、プネでお亡くなりになった。ハンセン病対策のお仕事で、現在インドのNGOに出向しておられる知人のAさんが教えて下さった。

僕にとっては、インド駐在時代にもっともお世話になったインド人のお一人である。2008年7月にプネのNGO、CASP/International Leprosy Union-India(ILU-I)/International Longevity Centre(ILC)のオフィスを訪ねた際に初めてお目にかかり、スタッフの方々も含めて1日インタビューでお世話になり、奥様も交えてお昼をご馳走になり、あげく著書を数冊まとめて頂戴した。その後、2009年2月のケララ州トリバンドラムでの超高齢化専門家会議で主賓で来られていたのでお目にかかり、さらに2010年1月、日本財団がムンバイで主催したハンセン病撲滅共同宣言の会議で、笹川陽平WHOハンセン病特別大使を訪ねてご夫婦で来られていたところをご挨拶した。

最後は僕が離任する直前の同年6月、ハンセン病問題での政府主催の会合でデリーに来ておられた博士を宿舎にお訪ねし、夕食をご一緒させていただいた。僕はその時自分の帰国後の行き先が決まっていたので、博士から、「人口高齢化の共同研究をやろう」というお誘いをいただいていた。新任地での仕事について、前任者からは、引き継ぐ仕事は半年程度で片づくので、そしたら自分のやりたい研究プロジェクトを主導することもできると聞かされていた。ところが実際は引き継いだ仕事が思いのほか手がかかって2年以上を費やし、今の部署の在任期間も残り1年もないような状況に至った今日、新しい研究プロジェクトなど立ち上げることもできそうにない。

博士の訃報を聞いた時、帰国してからの2年7ヵ月、博士との最後に交わした会話を実現させられなかった無念さ、自分の無力さを痛感させられた。博士に申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになった。2011年に入って僕が勝手に始めたゴカレ博士の著書の翻訳も、まだ20章以上残した状態で長く中断している。

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17.使命感を抱いた人 [S.D.Gokhale]

Gokhale1.jpg 韓国はアジアで初めてハンセン病撲滅を宣言した国である。そして、この一見不可能にも思える仕事を現実のものとして達成したのがルー・ジュン博士である。この有名な韓国人ハンセン病専門家は、母国においてハンセン病の影響を受けた人々に対して行なった支援活動が認められて、国際ガンジー賞を贈呈された。

 韓国でもハンセン病は深刻な問題だった。ハンセン病に罹患した人は社会から追放されるような扱いを受けるため、通常、町の郊外で暮らさざるを得ない。しかし、ルー博士はハンセン病の問題はそうした人々を社会から遠ざけることでは解決できないと考えた。彼は、経済的社会的なリハビリがこうした人々には必要だと考え、当時の韓国の大統領に、政府がこの人道的活動に関与するよう要請した。大統領の夫人がハンセン病の影響を受けた人々が暮らすコロニーを訪れ、その結果ルー博士の提言に基づく政府の政策は形成されたのである。

 博士は言っていた。「ハンセン病の問題は、体内のMレプラ菌(ハンセン病を発症させるバクテリア)を破壊しても解決にはなりません。この病気を持つ人々は、社会から受け容れられることが必要です。もしその人のビジネスがうまくいっていたり、その人が職を得ていたりして経済的に独立していれば、彼らと社会との距離は自ずと縮まっていくものです。」

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16.ありがままを受け入れよ [S.D.Gokhale]

Gokhale1.jpg カマラ・ニムカール女史と私がハンセン病回復者支援委員会のメンバーとしてマハラシュトラ州ナガールを公式訪問した時のことだ。途中にあるスィルールという村の学校にちょっと立ち寄ってこようということになった。インド人のホスピタリティには境界がない。私達も例外ではなくサルパンチの歓迎を受けた。(サルパンチは村長のことだ。)サルパンチは私達が絶対立ち寄ってお茶でも飲んでいけと強硬に主張し、それはなかば強制のようなもので、私達には選択の余地がなかった。

 当時、スィルールはとても小さな村で、とりたてて言及できるような目立ったインフラもなかった。なんとかやりくりし、サルパンチは私達に出すお茶を調達してきた。お茶自体は非常に強く、とても甘く、村の典型的な真鍮製のタンブラーに入れて提供された。ニムカール女史のお茶には小さな草っ葉が浮いていた。自分の手を使うのが好きな私達インド人なら、優美にそれを指でつまんで弾き飛ばしたことだろう。しかし、ニムカール女史はインド人と結婚したアメリカ人で、インドにも長く住んでいたにも関わらず、西洋式の癖が染み付いてしまっており、私達が指を使うような器用なやり方に馴染めないでいたのである。

 彼女はストレーナー(濾し器)を求めたが、そんなものが近くにあるわけがない。お茶自体がそこから遠く離れた誰かの家にあったものだからだ。ニムカール女史の苦戦を見てとったサルパンチは、お茶の入ったタンブラーを自分に貸すよう言った。「私がお茶を濾しましょう。」彼は空のタンブラーを1個持ってくるように言い、ドティ(ズボンの代わりにインド人の男性が腰に巻いている伝統的な布)をストレーナー代わりに使って、タンブラーのお茶を空のタンブラーに注いだ。

 このような風変わりな濾し方は、ニムカール女史を震え上がらせるには十分だった。彼女はすぐに抗議した。「あなたなんでこんなことするの?あなたのドティが汚れちゃうじゃない。」これに対してサルパンチはそっけなくこう答えた。「ああご心配なく。そのドティはすでに汚れていたから。」

 私はニムカール女史をなだめすかし、そのうちようやく彼女も濾過したお茶をすするようになった。私はこう言ったのだ。「カムラさん、インドで草の根レベルで社会福祉の仕事をやっているなら細かいことをいちいち騒いでいるわけにはいきませんよ。この状況とともに生きていかなきゃ。」
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15.その窮地を救おう! [S.D.Gokhale]

Gokhale1.jpg それは知的でかつ実用的な物の考え方をするB.G.ガテ氏が州社会福祉局長を務め、私がその補佐を務めていた時に起きた。マハラシュトラ州の社会福祉担当大臣がムンバイの物乞い収容施設を報道関係者を連れて訪れることになったのだ。

 ムンバイの通りで物乞いをやっているのが見つかった人々は、警察に検挙され、社会復帰のために収容施設に送られた。彼らが施設に着くと先ずスクリーニングにかけられ、カテゴリー別に分類される。ハンセン病や他の感染症を患っている者は、隔離された建物に収容された。

 社会福祉大臣と報道関係者が来るということで、施設は一斉に清掃し整頓せねばならなくなった。ガテ局長は、入所者は全員清潔で白く輝く服装をしていなければいけないと言った。私は全員が白衣でいることは難しいと指摘した。入所者の服は清潔にはできるが、ピカピカの白色には統一できないのではないか、それは彼らに対して多くを求め過ぎだと。入所者は自分達の服をリタというハーブ系の果実で洗っている。石鹸と比べて安いからだ。リタは衣類をきれいにすることはできるが、白くなるかどうかは別問題だ。

 しかし、ガテ局長は白にこだわった。「私はみなにピカピカの白でいて欲しいのだよ。それだけだ!」

 1956年当時、バンド・ボックスという新しい洗濯業者が開業したところだったので、私はそこのマネージャーに会い、私達のところに2,000着近いシャツと2,000本のズボン、それに2,000個の帽子があって、それらを全て洗濯しなければならないのだと説明した。そのうえで、私はこのマネージャーに、洗濯料金について多少割引してほしいと要望してみた。

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14.ある母親の自己犠牲 [S.D.Gokhale]

Gokhale1.jpg 一時私はハンセン病療養所の所長を務めていたことがある。そこの入居者に若い頃からハンセン病を患っていた年老いた1人の女性がいた。彼女は既に完治していたのだが、自分の家のある村に戻るのを拒み、療養所にとどまり続けていた。

 彼女のベッドのそばの壁に、割れた鏡がかかっていて、私は彼女が1日に何度もその鏡を覗き込む姿に気づいた。とうとう私は彼女に聞いてみることにした。「アージ(おばさんという意味)、なんでいつもあの鏡を覗き込んでばかりいるんです?あんな小さくてはっきり見えないのに。」

 「息子よ、わたしゃ鏡で自分の過去と未来を見てるのさ」――彼女は怪訝そうな表情を浮かべながらそう答えたが、それ以上説明しようとはしなかった。私は丁寧に尋ねたにもかかわらず。彼女が話したくなさそうだったので、私はそれ以上聞くのをやめた。

 ある日、県の新しい徴税官補がわが療養所を訪ねて来るとの連絡を受けた。その徴税官補の名前と出身地を知ると、彼女は私にこう嘆願してきた。「息子よ、お願いだからその男を私の部屋には連れて来ないでおくれ。」

 「アージ、あなたがそうおっしゃるのなら、そうしましょう」――私はそうすることを約束した。「でも、理由を教えて下さい。」

 「後で話します。」――彼女はそう言って話を打ち切った。

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タグ:ハンセン病
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13.私は自分自身を乗り越える [S.D.Gokhale]

Gokhale1.jpg 今度のハンセン病療養所の新しい入居者はとても攻撃的な人だと聞かされていた。彼は好戦的な態度をとり、激しやすい性格で、売られたケンカはいつでも買うぞという姿勢を見せていた。

 彼が入所してくると、療養所の監督官として、私は彼と面談した。彼は自分が学校教員だったという。「ハンセン病の症状が出てくるまで、生活はなかなか良かったが、病気のお陰で仕事を辞めねばならなくなった。こうなると誰も俺と付き合いたいとは思わない。俺の顔はみるみる崩れていき、誰もが怖くて私から遠ざかるようになっちまった。村八分になったようなものだ。自分のせいじゃないのに、俺は追放されたのさ」と彼は説明してくれた。その瞳には怒りの炎が感じられた。

 彼はさらに続けた。「先生よ、どうなろうと俺は人間だ。病気だからといって俺の欲求や願望まで妨げることはできん。だから俺はカマティプーラに行った。ムンバイの赤線街さ。他の女が俺を受け入れてくれなくても、娼婦とセックスすることには問題ないだろと思ったのさ。売春宿に着くと、さっそく1人女が目に入った。玄関口で俺に背を向けて坐っていた。俺は急に感情を抑えることができなくなり、その女の方に走っていき、後ろから女を抱きしめた。女は振り向いて、それで悲鳴をあげたんだ。女はおれの顔を見て、他の女たちと同じ反応をしたのさ。」

 「誰だって俺を求めたりはしない。誰もが俺を虐げ、忌み嫌うから、俺もそいつらを嫌った。俺は社会に対して反抗してやろうとした。先生、俺が何やったかわかるかい?」長い身の上話を終えると、怒りに満ちた男は私にこう尋ねてきた。

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12.その仮面が剥がされる時 [S.D.Gokhale]

Gokhale1.jpg ベイラム・タッカール氏(実名ではない)はマハラシュトラ州のある村で牛乳製造所を営んでいた。2人の娘と美しい妻に恵まれ、彼の人生はバラ色だった。ハンセン病に罹っていることがわかるまでは…。

 しかし、この病気とそれを巡る排斥行為などと闘おうとする彼の勇気と決意によって、前途に待ち受けていた様々な苦難を彼は乗り越えてきた。彼は自分の住む村の近くにハンセン病罹患者のためのリハビリ・センターを開いた。そこは今でも、この病によって日常生活を妨げられた人々の避難所となり、安息の地となっている。

 彼の努力が全て実を結んだわけではない。ハンセン病のスティグマによって、彼の愛する娘のうちの1人は結婚相手を得ることができなかった。何度も何度も花婿候補の男たちは彼女との結婚を拒んだ。彼女自身だけではなく、両親もイライラをつのらせていった。タッカール氏がこうした身の上話を打ち明けてくれた後、私はその娘に政府機関での仕事を斡旋した。その後彼女は銀行でもっといい職を得ることができ、そして結婚相手も得ることになった。

 社会に対して行ってきたその奉仕活動が評価されて、タッカール氏は政府のリハビリテーション局の局長に任命された。ある年のこと、局議がサンクラントの祭りの間に開催されることになった。サンクラントは春の到来を祝い、ティルグルとして知られるお菓子を食べるお祭りである。誰もが人からティルグルをすすめられたら自分のティルグルを他の全ての人にもすすめ、「このお菓子を取って甘い言葉で話して下さいな」と言うのである。

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11.取り残され声も出ず [S.D.Gokhale]

Gokhale1.jpg タラ(実名ではない)はムンバイのスラムの1つに夫と住む幸せな主婦だった。家計はいつでも火の車だったが、2人の結婚生活は強固で愛情に満ちたものだった。

 しかし、ある日タラは自分の体についてある兆候が見られるのに気付き、それがハンセン病ではないかと疑わざるを得なかった。彼女が恐れていたことを医師も指摘した。この痛ましい知らせで夫を動転させることを望まなかった彼女は、静かに家を出た。

 彼女はハンセン病回復センターに取りあえずの避難場所を見つけた。しかし、病気の方は彼女の体をむしばみ始めた。顔面の神経にも悪影響が出始め、じきに顔面が大きく崩れて、両目のまゆを失い、耳たぶが厚さを増し、鼻がくぼんできた。まるでライオナイトで作った顔のような状態になっていったのである。

 治療が始まると、タラは夫に頻繁に手紙を書き、どれだけ夫に会えずに寂しいかを伝えた。ある日、彼女は夫に、ハンセン病感染者コロニーのすぐ外にある小屋で会って欲しいと要望した。夫も彼女がいなくて寂しいと思っていたが、会うことについて了承した時は、彼女が身体的にどれだけハンセン病の影響を受けてしまったのかがよくわからなかった。

 夫が小屋に辿り着く頃には、夕闇がその地区を覆っていた。激情に駆られて2人は抱き合い、そしてその場で愛を交わした。夫が照明を点けたのはその後のことだった。

 夫は、愛のこもったまなざしで自分を見つめる妻の崩れた顔面に戦慄を覚えた。ショックと悪寒が彼を襲い、よろめきながらドアに手をつき、食べていたものを吐いてしまった。そして、ひとことも発することなく、そして振り返ることもなく、夫は同様にショックを受けた妻を残して小屋から出て行ってしまった。

 タラの夫は二度と戻って来なかった。タラは二度と夫に手紙を書かなかった。そして、その日以来、彼女はひとことも話さなくなってしまったのだった。

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10.引き返せない一本道 [S.D.Gokhale]

Gokhale1.jpg マハラシュトラ州社会福祉局の局長補佐を務めていた頃、私は州内のとある村で雑貨屋を営んでいたラメシュワールという男と出会った。彼は神を畏怖しており、毎日寺に通い、バジャン(神に捧げる歌)を歌っていた。彼はとてもいいのどをしていたのである。

 ラメシュワールはその誠実な働き振りを取引相手からもよく知られており、村人からも「いい人」として尊敬を集めていた。彼のお店にやって来る人は、彼が売り物のジャッガリー(ココナッツヤシから採る粗黒砂糖)から噛まれることなくアリを取り除いている姿をよく見かけたからである。サソリが彼を刺したことが一度あったが、彼はたじろぐこともなかったという。単純に物事を考えてしまう村人には、彼のこうした魔法のような力は実際には感覚の喪失によるものだということまではわからなかった。それはハンセン病の最初の兆候だったのである。

 少し後になって、ある日、村の床屋がラメシュワールの散髪のためにやってきた。その時この床屋は、ラメシュワールの耳が異常に厚くなってきて、片耳に傷跡があることに気付いた。こうして誰もがそれがハンセン病であると疑いはじめた。

 床屋というのは、インドのどこの村や町においても情報を広める放送局の役目を果たす。ラメシュワールのケースでもそうだった。あそこの雑貨屋やハンセン病に罹ったらしいという話は数分もしないうちに村中に知れ渡った。

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9.命と向き合う [S.D.Gokhale]

Gokhale1.jpg 1947年、私はタタ社会科学大学院(TISS)でソーシャルワークの勉強をしていた。インドが独立し、そして悲しいことに分離した年である。

 当時の首相だったジャヤハルラル・ネルーがTISSの学生に講演しに来訪した。私達に話しかけながら、ネルーは私達の学部長だったシュリ・クマラッパにこう尋ねた。「学生諸君は教室や図書館や大学の構内にいて、命について何を学ぶことができるというのかね?このキャンパスでは見ることができない命の現実と直接向き合うことで命について学ばないといかんよ。印パ分離は実に沢山のホームレスを生んでしまっている。ここの学生が本当のソーシャルワークをやりたければ、印パ国境に行かなきゃ駄目だ。」

 ネルー首相のアドバイスを受け、私を含む10人の男子学生と10人の女子学生が、ベーラム・メタ博士をチームリーダーにいただき、デリー、クルクシェトラ、パンジャブを訪ねた。パンジャブが私達の最初の拠点だった。マウントバッテン卿夫人の監督下で何グループものボランティアが働いており、夫人は私達に次の3つの活動を割り振った。

1)デリーに来た何百人もの避難者を登録すること

2)インドからパキスタンに移住しようとする避難民を輸送する列車に同伴で乗り込み、復路は逆にパキスタン側からインドに移って来る避難民をエスコートすること。

3)クルクシェトラに難民キャンプを開設するためのボランティアとして働くこと

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