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「バプ・プロジェクト」とは? [インド]

三浦朱門、協力隊の歴史を語りつぐグループ編
『翔べ、途上国に:国際協力にかける青春』
三修社、1980年

以前、青年海外協力隊員として1960年代から70年代の協力隊創成期に途上国に派遣された方々の現地経験とその後の人生についてまとめた本を何冊か読んだ際、1960年代末から70年代前半にかけて、南インド・カルナタカ州(当時はマイソール州)で、「バプ・プロジェクト(Bapu Project)」という事業に参加した隊員がいたことについて知った。インドどころか全世界を見渡しても協力隊史上初となる隊員チーム派遣が行なわれた案件なのだそうだが、インドの協力隊に関する資料を多少調べてみたものの、バプ・プロジェクトについてちゃんと書かれたものが少ない。インターネットで検索しても、ろくなサイトにヒットしない。神秘のベールに包まれたこのプロジェクト、ようやく見つけた最初の資料は、1980年に発刊された上記の本の中に出てきた。本書は協力隊事業開始から十数年を経て、その初期の協力隊の経験について有志が参加してまとめたものだが、その第7章は「消えていった計画」(pp.90-117)として、バプ・プロジェクトの経験に充てられている。これで十分だとはとうてい言えないが、現時点までの収集情報としてご紹介しておこう。

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1)バプ・プロジェクトは「ガンジー生誕100年記念自立計画」の略称で、1969年(昭和44年)が生誕100年に当たることを記念して、カルナタカ州にあるガンジー関係の団体や財団が連携して取り組もうとした新たなイニシアチブである。ガンジー夫妻を記念して各地では各種の社会事業団体が設立され、活動を展開していたが、生誕100年の頃にはその使命を果たし終えたものとされ、国立ガンジー記念財団からこれらの団体への資金援助が中止されることになり、各団体は何らかの方法で経済的な自立を図らなければならなくなっていた。カルナタカ州の各団体も同様で、それぞれの所有地を農業生産に利用して将来の自立を考えていた。しかし、それに必要な技術面での人材不足の問題が実現を妨げており、これを打開するために協力隊員の派遣が計画された。

2)チームリーダーの下には、稲作、果樹、農業機械、農業土木、ネズミ防除、農業経営、家畜飼育、獣医、保母、デザインといった職種の隊員が派遣され、総勢15人の大規模なチーム派遣となった。

3)このプロジェクトの形成において日印双方で主導的な役割を果たしたのは、後にカルナタカ州の閣僚に登りつめる社会福祉事業家ヤショーダラ・ダシャッパ女史と、インドに6年間留学していた小野田文彬であった。小野田は、留学中、下層カーストに属する人々が、暴力によることなく自立できる道がないものかと考え、もしそんな方法があるとすれば自分も参加したいと思っていた。帰国後、青年海外協力隊事務局を訪ねてその夢を語ったところ、当時の局長が「小野田に何かをやらせてみよう」と考え、小野田はインド隊員の要請開拓担当の職員として事務局で採用されることになった。小野田がその業務に従事している中で、ダシャッパ女史と出会った。

4)小野田とダシャッパは、「社会の変革に暴力を用いずに質的な変化をもたらせる可能性があるとすれば、それは技術を触媒として、現在インド社会の底辺にいる人々の心に眠っている個々の主体意識の回復を図ることが肝要である。そのために協同組合組織等による底辺からの積極的な経済的自立への努力をする」とするプロジェクトの理念を確認し、そのための具体的な計画として、次の3点に決めた。
 
 ①農業分野での生産販売を通じて、各団体の経済的自立を図り、事業を発展させる。
  そして、財団職員の老後の保障のための財源も確保する。
 ②各種福祉の運営に参画する。
 ③農業生産物を使った小規模工業の振興を図る。

5)但し、プロジェクトの計画立案段階から実際に隊員派遣が実現するまで、3年が経過している。それでも計画が実現するかどうかわからない中、多くの隊員候補生が3年近く待たされ、ようやく派遣が実現する。その派遣前訓練もユニークなもので、通常の派遣前訓練を了した後、バプ隊員は茨城県吾国山の青少年センターに1ヵ月こもり、各々の異なる専門性や個性をものとに、参加者がセンターの施設を整備拡充するというものだった。現地での本番を前に、参加者がお互いをよく知り合うとともに、1つの共通の目標に向って、チームワークを発揮してそれをやり遂げる経験を共有することが期待された。

6)1969年12月に着任した隊員達は、現地への適応とともに関係諸財団とその施設を見学・調査して回った。最終的に各隊員の任地が確定したのは着任後6ヵ月を経過してからだったという。カルナタカ州から以下の3ヵ所を選び、隊員を分散配置した。

 ①KKV(カストルバ全寮制女学校)とカストルバ・ガンジー記念財団(場所:アルシケレ)の農業経営
  バンガロールから西へ166km。隊員9人が配属。
 ②HHS(ハリジャン奉仕団体)(場所:ラモナハリ)のハリジャン児童向け寄宿舎運営と農場運営
  バンガロールから南へ40km。隊員3人が配属。
 ③ジャナパダ・セワ財団(場所:メルコテ)の幼稚園、障害児のホーム、全寮制女学校での社会福祉活動
  バンガロールの南西120km。女性隊員2人が配属。

7)隊員の活動のうち、農牧経営については、現地の事情がつかめてくるにつれて、軌道修正が図られていった。例えば、畜産は市場性という面で困難があることがわかり、飼料作物の栽培から始めることになり、荒地の開墾と灌漑設備の工事から着手することなったという。稲作隊員は、実際にその農地が極度のアルカリ土壌で稲作の成績が思わしくなかったため、トマト栽培に切り替えたという。このように、バプ・プロジェクトに参加した隊員は、各自の置かれた環境を先ず受け入れ、その中でプロジェクト全体のことを考えながら自分のできることは何かを模索したという。

8)しかし、このプロジェクトは、インド政府という公的機関が実施母体となったものではなく、カルナタカ州の民間のガンジー主義関係の各種団体、財団の連合体が計画したものだったため、隊員達も、通常の派遣であれば当然相手国政府が配置するはずのカウンターパートがおらず、そのために単に技術面でのアドバイザーという協力者としての枠を超えて、実施的な計画実施の責任者として位置づけられていたようである。このため、相当なプレッシャーがプロジェクトに派遣された隊員達の肩にはのしかかった。他の個別派遣の隊員と比べても精神的な余裕は少なく、両者の間の関係も円満なものとはなりにくかった様子が窺える。

9)試行錯誤が許されない厳しい勤務条件の中、彼らが実際に行なった活動は次の通りである。

 【アルシケレ】
 ①未開墾地40エーカーの開墾と野菜栽培、②飼料作物の栽培と肉用牛の導入、
 ③井戸掘り、ポンプやスプリンクラーを入れての灌漑用設備の整備、
 ④ココナッツ300本の管理と160本のココナッツの育成・販売
 ⑤ネズミの生態調査、被害調査から殺鼠剤の製造、販売など
 【ラモナハリ】
 ①10エーカーの農地開墾、②灌漑設備の建設、③稲作、ラギー(麦裏作)、④ココナッツ育成など
 【メルコテ】
 ①村の幼稚園児を対象とする保育活動、②将来の経済的自立の実験として、障害児に対する絵画教育と
 その作品の商品化など

10)こうした実績をあげる一方、隊員達は、ハリジャンの自立という究極の目標と実際の現実との間に、大きなギャップがあることに気づき始めた。例えば、財団経営の上層部のインド人たちはエリート層に属する人々で占められ、理念上はプロジェクトの主体となるべきハリジャンたちが実際には農場労働者として働かされていた。「何もしないでただいばりかえっている上層カーストのブラーマン出身の管理者クラスにひきかえ、彼ら(ハリジャン)は、一生懸命に、そして出しゃばらず黙々と働いた」という。心情的にハリジャン側に傾いた隊員達がハリジャン優遇策を打ち出そうとして、かえって妬みや嫉みを招いてプロジェクト運営がかえって難しくなってしまったこともあったという。

11)1971年12月、2年の任期を終えて8名の隊員が帰国、残る隊員たちも2ヵ月から1年の任期延長を経て、1972年中に帰国する。ちょうどこの頃、印パ戦争をきっかけとしてインド政府は外国人ボランティアの活動全体を見直すとの方針を打ち出し、1972年9月には、各国のボランティア数を最高50名に制限する政策を発表した。これを契機に、協力隊事務局は、任期延長者が任期を終了する12月の時点で、バプ・プロジェクトは継続させないとの方針を決定した。直接的な契機は確かにインド政府の政策によるものである。しかし、当時事務局内には、バプ・プロジェクトが「協力隊の活動は協力者、脇役」であるとする本来の役割を踏み越え、隊員自身が主役となってしまっている実態を懸念する声がかなり大きかったようである。

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以上が本章の要約である。驚いたことに、現在にも通じるインドの階層社会の問題について、当時のプロジェクト派遣隊員達が既に気付いている。上記の10)に書かれている実態など、現在のNGOの多くが同じような構図になっている。「命令する者」と「命令される者」が明確に二分され、それでは「命令される者」が常に虐げられた弱い立場にあるかというと、実はその中にも上層階級以上に苛烈な権利闘争が下層カースト内でも起っていて、外部者が下手な正義感に燃えて関わろうとするとかえって下層カースト内での対立を助長してしまう事態を招くこともあり得る。

とはいえ、日本人の若者はそうした状況を見れば「命令される者」の側に立ちたいというのが心情。そしてそれが組織のエリート層から見れば、「あいつらにやらせておけ」という高みの見物という構図になる。本章の最後に書かれている帰国隊員のコメント、「ボランティアがインドへ、何か協力しに行って、驚くことは、インドの人々が、彼らを、インドに何かを勉強しに来た若者としてとらえることだ」というのは、現在インド人が一般に抱いている協力隊員へのイメージとも符合する。「日本人ボランティアにインドを見る機会を与えてやった」ぐらいの親心で隊員を見ているインド人関係者は結構多いのである。

それにしても、1人のインド留学帰りの日本人の若者の声を聞いて、その夢を実現させられるよう支援しようとした協力隊事務局長がいたという、当時の若者と事務局長との距離の近さにも驚かされた。おそらく当時は年間の派遣人数も少なかったので、事務局の関係者が応募者ひとりひとりをよく見守ることができたのだろう。
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