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再読『日本人の知らない武士道』 [読書日記]

日本人の知らない武士道 (文春新書 926)

日本人の知らない武士道 (文春新書 926)

  • 作者: アレキサンダー・ベネット
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2013/07/19
  • メディア: 新書
内容紹介
ガッツポーズは武士道に反する!?剣道七段、薙刀五段の著者は武道を通してこそ武士道がわかると語る。日々の仕事、ストレスマネジメント、勝負論に武士道を生かす。

ティンプー・ツェチュ(大祭)の連休、肝心のツェチュをパスしてまたしてもネパール・カトマンズに来ている。その旅のお供に積読状態の本を4冊携行したのだが、そのうち最初に読んだのは、積読ではなく再読になるアレック・ベネット先生の著書。5年前に一度読んでいて、その時は主に第1章「残心――武士道の神髄」を中心にブログでご紹介した。

連休で読書にある程度の時間を割ける今、あえて再読に踏み切ったのは、実はカトマンズに剣道具を携行してきているからだ。南アジアでの剣道は、日本人中心で最もレベルが高いデリーのインド剣道同好会(剣印会)と、ハイデラバードでインド人が主宰している武道会がある。このハイデラバードのインド人の先生が、「ネパールは進んでいる」と10年近く前におっしゃっていた。日本大使館の草の根無償資金協力で武道館も作られているようだ。そこで行われている稽古の動画を見たが、ものすごいスピード重視の剣道で、攻めもクソもなくいきなり打ってくる。相手も構えを崩して迎撃するので、相打ちになってその後は鍔迫り合い、それもすぐに引き技。まともに応戦したら自分の老体が持たないと思った。今こそ、前回のブログでも紹介した以下の引用を再確認し、異国での出稽古に臨みたいと思った。

 武道においては、負けることによってこそ学ぶことは多い。面を打たれた。なぜそこが空いたかを相手は示してくれた。自分の弱点を教えてくれた。これからの稽古でどうやってその弱点を克服するか、修行の課題を与えてくれた。それを糧に自分はさらに強くなれる。より強い自分となって試合に臨める。その思いが「ありがとうございました」という試合後の礼につながるのである。(pp.45-46)

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《カトマンズでの剣道の様子です》


従って、この地での稽古に無心で臨むための再読というのが最大の目的だったのだが、再読してみて2つ新たな発見があったので付記しておきたい。

1つは、リーダーとしてのあり方。第2章「理想のリーダー像――『甲陽軍鑑』」が最も詳しいのだが、第1章の残心に関する考察の中にも、身につまされるものがあった。「残心は自己責任」と題した節で、著者はこう述べている。

 私自身の話をすると、武道を通して私に生じた最も大きな変化は、何事も人のせいにしなくなったということだった。生きているうちは、山あり谷あり、恋人にふられることもあるし、不景気で仕事を失うこともある。
 自分に不都合なことが起こると、人は往々にして「あいつが悪い」「運が悪かった」と他人や運のせいにするものだ。しかし、よくよく分析すれば、「ああ、あのとき、自分がこうすればよかったんだ」と後から分かる。
 自分のおかした失敗は、よく考えてみれば自分に残心がなかったことに拠る。残心は自己責任の倫理でもある。
 もちろん組織で働いていれば、他人のミスで自分が迷惑を被ることはあるだろう。その場合、「どうしよう」と頭を抱え、「俺は悪くない」と開き直って何もしないのか。あるいは、起こった出来事にいっさい文句を言わず、「そうか、ではこうしよう」「わかった、次の選択肢を選ぼう」と即座に対応するのか。残心があれば、起こった事態にとらわれず、次へ次へとつないでいける。(中略)
 ひとつの失敗でやめてしまえば、それで終わりだ。次につなげなければ強くはなれない。継続するためには、自分を省みる残心が必要になる。勝っても負けても、成功しても失敗しても、油断せずに次につなげていく。それは仕事にしろ、人間関係にしろ、日常生活のどんなところにも通用する心得だろう。(pp.60-62)

今週、僕はブータン人の部下を叱った。「自分は悪くない、ブータンではこうする」という言い草に腹を立てたからなのだが、叱られた部下がその後不貞腐れて仕事に臨む姿勢がかえって悪化したのを見て、自分の言い方も拙かったかなとかえって僕自身が自己嫌悪に陥ってしまった。2年以上ブータンで働いていても、僕が思っていることと周囲のブータン人が思っていることが違っていたという失敗談は多く、その度に自己嫌悪に陥る。残心をとって次につなげる姿勢がまだまだできていない。

他方で、ブータンで剣道を教えるということは、この「残心」を通じて、言い訳をしがちのブータン人に「自己責任の倫理」を伝えるいいチャンスかもしれないとも思った。2つめの発見というのはその点とも絡むのだが、ブータンの若者がなぜ剣道を習いたいと思ったのか、その動機の部分にもう少し目を向ける必要があるなと感じた。

著者は本書の中で、外国人が武道を始める動機として、精神修養と人間形成、宗教的な動機に注目している。スピリチュアルな側面に惹かれて武道を始めるケースが海外では非常に多く、かつ急速に増えているという。あるいは始める動機は様々でも、続けているうちに武道に精神的、宗教的支柱を見出す場合も多いらしい。

武道がこうしたスポーツとは一線を画するのは、宗教に近い深遠な精神性を有していることである。(中略)武道はスポーツのように知能を含む身体の体系でも、宗教のように儀式を含む観念の体系でもなく、身体の鍛錬を通して精神的世界に辿り着くという心身に相わたる体系である。
 心身をともに鍛えるという武道の底には、東洋思想を貫く心身一如、心と身体は一体であるとの身体観、生命観がある。一方、西欧のスポーツは心と身体は別だとする心身二元論に基づいていた。しかしそれも最近は変わりつつあり、エリートスポーツ選手は禅やメディテーションを訓練に取り入れているケースが多くなっている。(p.199)

ご想像の通り、ブータンで剣道を教えて欲しいという方々への対応で苦慮するのは、竹刀も木刀も、稽古着も袴も、防具も足りていないという中で教えるということである。僕も竹刀と木刀は余分に持ってきているが、それだけではとうてい足りない。かろうじて木刀による剣道基本技稽古法から教えているけれども、どうやったら次のステップに移行できるかでは悩むところが多い。

本書を読んでて気づかされたのは、そうした時に、そもそも剣道を習いたいという生徒さんは何を剣道に期待しているのかという、動機の部分に立ち戻ることの必要性だった。いずれ彼らも精神性や心身一如へと向かっていくのであれば、そういうところをちゃんと伝えられる「言葉」を僕は持っておく必要がある。それは、アレック先生が母国ニュージーランドで初めて立ち上げた地元の剣道クラブで最初にぶち当たった壁でもあるという。それがあって今の発信力につながっているのだと思う。それに沿う形で、僕自身も剣道の持つ精神性、精神修養と人間形成の部分をしっかり言語化していけるようにしたい、そう思った。

◇◇◇◇

最後に余談ですが、先週末韓国の仁川で行われた、剣道世界選手権の男子団体決勝の日本対韓国戦の内容が、また物議を醸しているようである。日本が勝ったのだが、また韓国が負けたので、場内のブーイングもすごかったし、その後の韓国国内のメディアの報じ方も、日本が逃げをうったと日本の品格を問うものや、ビデオ判定の導入を求めるというものが多かったように思う。

アレック先生の著書を読むと、前々回大会での日本チームの勝利重視で逃げをうった姿勢には批判的な書きぶりなのだが、勝利重視という点では韓国も同じだし、ましてやビデオ判定など導入したら、柔道と同じ道を歩むような気がしてしまう。旗が2本上がってしまう、あるいは自分は有効打突だと思っていても旗が1本も上がらなかったとすれば、それらには理由がある筈で、それを振り返り、さらに精進につなげるのが武道の良さだとも語っておられる。

そこまで勝利に執着する一部の国がある一方で、負けを今後の糧として、さらに修行を続けようという多くの国がある。世界選手権は、開催される限りこの手の論議はずっと続くと思うが、3年に1回、世界の剣士と剣を交えることができるよい機会でもあると思うし、実際今回の世界選手権の前にも、韓国国内や日本で地元の剣士と交流を重ねたチームがいくつもあったことを忘れてはいけない。

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